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  COPYRIGHT(C)1998-ARAKAWA KATSUMI,SAIDIA FURAHA wo SASAERU KAI & Hikari Miura ALLRIGHT RESERVED. Illustration by Jin Kawaguchi. 禁無断転載  

 

 

 

 

 

現地サイディア・フラハの訪問レポートです。じかなる体験の、生の声をどうぞ。

22歳、サイディアめざして初の海外旅行・・収穫満載の旅でした。(2018年8月)
内田健太
 

◎ビール代がコーヒー代になった話 ~ケニアらしい洗礼 ~
 ナイロビ空港内で私は初めて海外に来たことに加え機内サービスでお酒を飲んでいたことで浮かれていた。
 空港の出口の手前の広場のようなところで預け荷物を拾って空港の外で荒川さんと合流するはずだった。だが本来置いてあるはずの場所に私の荷物は置かれていなかった。私は空港の係員にカタコト英語で自分の荷物がないことを伝え、自分の荷物の番号が書かれた紙を見せた。すると係員はバックヤードへ行きそこから私の荷物を持ってきてくれた。
 自分の荷物が表に出ていなかった理由はわからなかったが、とりあえずサンキューと言ってバッグを受け取りそこから去ろうとした。しかし、係員は私のバッグを離さなかった。係員は私よりも一回りも二回りも体が大きく強引に振り払うことはできなかった。そして、係員は私に英語でコーヒーが飲みたいと言ってきた。
 意図がよくわからなかった。さらに係員は財布とパスポートを見せろと言ってきた。私は密輸を疑われていると思い(横山さんから荒川さんへの届け物をバッグに入れており思い当たる節はあった)素直にその二つを渡した。すると、係員は私の財布の中身を見て嬉しそうに大きく頷き「just like tip!」と言い約50ドルを抜いた。
 これは私が帰りにドイツの空港でビールを飲む予定でとっておいた50ドルだった。そこでやっと、コーヒーが飲みたいという言葉の意味を理解したがもう遅かった。チップとしてコーヒー代をよこせという比喩表現だった。
 日本では信頼できるはずの空港の係員にお金を抜かれたときのショックは今でも鮮明に覚えている。一瞬で私のビール代が係員のコーヒー代になってしまったのだった。
 因みに現地のコーヒーは外で飲んでも20kshくらいだったので50ドルは大体コーヒー280杯分だ…空港から出る前から早速ケニアの洗礼を受けた。

◎普段の生活 ~朝の儀式~
 毎朝7時半頃になると子供は朝食ができたことを伝えにゲストハウスのドアを叩き知らせに来た。ドアを開けても誰もおらず一人で朝食に向かおうとすると、ドアの裏に隠れていた子供が私を驚かした。大袈裟にリアクションをとる私を見て楽しそうにする子供と一緒に朝食を食べに行くのが日課だった。食事する場所まで行く途中は前日の夜に教えてもらったスワヒリ語の「抜き打ちチェック」をされることもあった。
 食事の前にはお祈りをする。私も真似してお祈りをした。終わると子供たちは私に合わせ「いただきます」と言ってくれた。朝食はジャムを塗ったパンとチャイを食べることがほとんどだった。私の食パンには気を使って皿を敷いてくれたが、子供たちは食パンをテーブルに直接置いて食べていた。食事が終わると子供たちは補修授業へ行った。

◎施設のまわりの風景 ~名前を呼ばれる~
 その間私は施設周辺を散歩することが多かった。外出するときは部屋のドアに南京錠をつけた。キテンゲラの道路はコンクリートではなく土であるため砂埃が舞っていた。道路は牛やロバ、鶏が路上に放し飼いにされそこらに糞をするため独特の臭いがした。アジア人が珍しいらしく散歩をしていると人懐っこい子供にはよく声をかけられた。初めの頃はよく名前を聞かれその度教えたが、一週間もすると覚えられ名指しで話しかけられるようになった。顔見知りが増えていくことは楽しかった。

◎東屋の基礎工事を手伝う ~初めて鍬を使う~
 昼食は豆の水煮を米にかけ食べることが多かった。味付けは塩だけだった。買ってきた豆は砂利が混ざっているので自分達で取り除く。これを怠ると次の日、自分の飯に砂利が入ることになるので皆真面目に砂利と取りをする。年齢に限らず使った皿は自分で洗う。洗剤やスポンジは使わず水で流しながら手で擦り汚れを落とした。
 昼食のあとは東屋作りを手伝った。東屋といっても未だ形は無く、私のいるときは土台作りの期間だった。真っ直ぐ建てるために近くの砂山を桑で崩し指示された場所に砂を撒いた。
桑を使ったことない私にとっては重労働だった。15歳前後の裸足の女の子は靴を履いていた私よりも上手く桑を使いとてもたくましかった。
 汗をかいた後は水を浴びた。お湯はでなかったがすぐ慣れた。水浴びのあと風に吹かれる気持ちがよかった。

◎夕食 ~チョコから見えた子どもたちのこと~
 夕食の準備は手伝う子供が多かった。わたしも習って手伝おうとしたが、手際が悪く薪を割る係りになることが多かった。
施設の子供は器用だった。果物ナイフの様な刃物を上手く使い野菜を切り、鶏もその小さな刃物で捌いた。切れ味が悪くなると、コンクリートの建物の角に擦り付けて刃を研いでいた。
 夕食は豆の水煮とアボカドが多かった。私はアボカドをデザートにとっておいたがそれを見た子供は私のアボカドをスプーンですりぶして豆の水煮と混ぜてくれた。余計なお節介だと思ったが食べてみたら意外とおいしかった。
 私は食後に日本から持ってきたチョコレート菓子を配ることがあった。配るととても喜んだ。施設の子供はお菓子の端がギザギザのビニールの袋の開け方を知らず、噛みちぎって開けたりナイフで開けたりしていた。皆食べ終わったチョコの袋をしばらくガムのように噛んでいた。 先に食べ終え他の子供からチョコを奪う子供がいた。チョコ奪われた子供は泣いていたが優しい別の子供は泣いている子供にチョコ少し分けた。こっそり私がチョコを奪われた子供にもう1つチョコを渡すと、その子は律儀にさっきチョコをもらった子に分けていた。日本とケニアのものの価値の違いと同じ人間として共通する感覚を感じた。
 週の半分くらいは食後に皆で勉強をした。使っている教科書は一冊でそのなかに全部の教科が含まれていた。内容は小学校低学年から中学生位までのレベルだった。教科書はボロボロで色々な人の名前が書いてあった。汚れていたり、破けていたりするページもあった。しかし、施設の子供は皆楽しそうに勉強していた。勉強をすることが贅沢な事だと身をもって理解しているようだった。
 食事をする部屋にはブラウン管のテレビがある。勉強をしない夜は音楽番組を見ながら皆で踊った。音楽番組は毎日同じ音楽が流れていた。皆ダンスが上手く楽しそうに踊った。私も一緒になって見様見真似で踊った。皆で一つのテレビを見る感覚は普段スマホで自分の好きなコンテンツだけしか見ない私にとっては懐かしい感覚だった。夜10時頃になると解散した。
 一人でゲストルームに戻ると直前まで皆で騒いでいたため余計静かに感じすぐ蚊帳に囲まれたベッドで眠った。

(写真)施設(サイディア)前の道路

 道路はコンクリートではなく土がむき出しの状態だった。人通りが多く一日中、人が行き来しており特に子供が多くとても賑やかな印象的だった。(日本に帰るとき最後に施設の子供にお菓子をたくさん買おうとしたときはそこら中から子供が集まってきて大変だった)

(写真)キベラスラム

 ケニアでは大きいスラム街。落ちているごみの量がキテンゲラとは比べ物にならないくらい多かった。掘っ立て小屋が密集しており火事になりやすい。トイレもほとんどない。スラム自体が違法であるためスラムの中は治安が悪い。

(写真)モンバサの街

 ケニア内でも場所によって全く気候が違う。海沿いは湿度が高く蒸し暑かった。観光客も多く、リゾート地として栄えているように見えた。中華料理屋やインド料理屋もあった。モンバサの街の中にはイスラム街がありそこは町並みが外とは大きく異なり街の外と内のギャップが面白い。ケニアへ行くときは是非モンバサをお勧めしたい。

(写真)ディアニビーチ

 モンバサからフェリーとバスを使って二時間くらいで行けた気がする。海は青く砂は白かった。このビーチが日本にあったら連日多くの観光客で砂浜が埋め尽くされるだろうが、ここは不思議なくらい人が少なく静かな浜辺だった。

(写真)東屋づくりでセメントを混ぜているシーン

 みんなで順番にスコップを回しセメントを混ぜて運んだ。このセメントはすごく重かった。皆で役割分担し作業をした。年が上の子供ほど積極的に働いていた。荒川さんも率先して子供たちと同じくらい働いていた。

(写真)ケニアでも流行っているものーー自撮り

 現地での生活中に何度か行っていたバーがあった。三度目くらいにそのバーへ行ったとき若い女性店員に写真を撮りたいと誘われた。ケニアでもスマートフォンは普及し始めているのだ。ケニアビールを飲みいい気になっていた私が「of course!」とノリノリで言うと店員のスマートフォンではなく私のスマートフォンで写真を撮りたいといってきた。
 店員は撮った写真を共有する口実で私とメールアドレスや電話番号を交換しようとしているのだと勝手に思い上がっていた。そして二人で写真を撮った。その後何故か店員は自分だけで撮りたいと言いって自分だけで写真を撮った。
 私はスマートフォンを返してもらい「this is my address」と言って自分のメールアドレスを見せた。店員は「メールではなくBluetooth(スマートフォンの無線を使ってデータを送受信できる機能)を使いたい」と言った。Bluetoothを使って写真のデータを送ると、店員は自分一人が写っている写真を見て嬉しそうに「it’s clear. thank you!」と言っていた。
 店員は私とメールアドレスを交換したかったのではなく、ただ解像度の高い私のスマートフォンで自撮りがしたかっただけだった…ケニアの女子の間でも自撮りをフェイスブックにアップすることは流行っているようだった。
 私は一人で恥ずかしくなり、その店員にビールをもう一本注文することになった。

◎(終わりに)
 サイディアフラハの女性支援と日本からの支援の重要性について

 サイディアフラハでは男子と女子を同じようには支援していない。現在、寮では男子を受け入れていないし、裁縫教室も基本的には女子を受け入れている。
 理想は男子も女子も同じように支援することだがサイディアフラハで支援できる子供の人数は予算的に限られている。支援を受けられていない女子もたくさんいる。男子を支援しないのではなく、まずは女子からという姿勢なのだと思う。
 女子を優先的に支援すること対して私は賛成する。理由は二つある。
 一つ目は、ケニアで私が訪れた街は幾つもないが、見た限りでは女性の方が生きにくい環境だったと思えるからだ。キテンゲラの街中を走っているバイクタクシーの運転手は皆男性だ。バイクタクシーの運転手は学校を出ていなくても運転さえできれば食いはぐれることは無さそうだった。ロバに荷物を運ばせる仕事、レストランの料理人、スーパーのガードマンなど男性であれば特別な訓練なく就けそうな仕事が多いと思えた。ケニアでも女性は働きづらいのだ。
 二つ目の理由は、女性は子供を産み子供に大きな影響を与えるからだ。スラム街の小学校の生徒の家庭訪問を幾つかしたがシングルマザーはたくさんいてもシングルファザーは一人もいなかった。子供ができて苦労するのは女性だった。知識や教養を持たない親の子供は誰からもそれを学ぶことなく親になり子供を産む。このような連鎖にはサイディアフラハのような外部からの支援が必要だ。
 シングルマザーが多い環境では特に、将来親となり子供へ与える影響が大きい女子が知識と教養を身に付けそれを継承しなければならない。裁縫教室で裁縫を学べば仕事に就きやすくなるし、成績が良ければ進学もできる。親がお金を稼げれば子供を学校に通わせることができる。
 支援を受け知識や教養が豊かな親に育てられた子供はそれを継承していき良い連鎖が生まれる。私はこの良い連鎖が増えていくことこそがケニア、アフリカ全体が発展していくことだと思えた。日本からサイディアフラハへ支援をすることはこの良い連鎖を増やすことに直結している。約一か月間現地で生活をしてサイディアフラハはこの良い連鎖を増やすことに貢献していると実感した。
 荒川さんとキテンゲラの街を歩いているとよく施設の卒業生が「アンコー」と言って嬉しそうに荒川さんに話しかけてきた。子供と手を繋いでいる人もいた。街にはたくさん施設の卒業生がおり子供を持っている人も多い。日本の支援者によって成り立っているサイディアフラハからアフリカへと良い連鎖が少しずつ増え始めていた。


・サイディア訪問時期 
  8月
・訪問することになったきっかけ
 ボランティアどころか海外旅行にすら興味はなかったが、去年のケニア料理会へ行きサイディアフラハの子供や周りの大人がどのようなことを思って生活をしているのか気になり自分の目で見てみたくなったから。
・自己紹介
 工学院大学工学部機械システム学科三年(2018年現在)。22歳。杉並区在住。気まぐれな性格。趣味は銭湯へ行ったり陶芸したりをすること。好きな食べ物はラーメン。